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札幌市にある北海高等学校から
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開校記念日 校長講話

2022-05-13校長先生から

今年度の開校記念に関わる集会には、生徒は各教室において、パワーポイントを活用しながら次のような校長先生のお話を聴きました。

5月16日は本校の開校記念日です。1885年(明治18年)の創立以来、137周年を迎えることになります。今日は、北海の歴史と建学の精神にまつわる話をしたいと思います。
北海高校の前身は北海英語学校です。大津和多理らによって創られた北海英語学校は、札幌農学校(現北海道大学)への進学を目的に開校されました。
その2年後、初代校長となったのが浅羽靖先生です。「北海の父」と称えられている人物です。この頃の日本は、日清戦争から第一次世界大戦に至る時期で、いわゆる富国強兵政策の下、教育においても近代化が求められていました。しかし、当時、道内にあった官(公)立中学校は4校しかなかったこともあり、中等教育機関を充実させる必要性から1905年、日露戦争の最中に私立北海中学校が創設され、間もなくして教育方針である学訓も設けられました。その中に「質実剛健」や「百折不撓」という直接的な言葉は見当たりませんが、明らかに当時の国家政策が関わっていたことが伺われます。
1908年、明治天皇の名で「戊申詔書」が発布されました。この詔書は西欧列強と肩を並べた日本が、その地位にふさわしい経済的発展を果たすために、国民に対して勤労の精神と道徳を説いたものです。「国民は質実を重んじよ」とあり、飾り気がなく真面目で心身ともに強いという人間像は、当時の国家が求めた理想の国民像でり、「質実剛健」は画一的な教育目標を表すスローガンとして、本校のみならず全国各地の旧制中学校の校訓に採用されたことが推測できます。
 浅羽校長の学訓は、国家の役に立つ人材を育てる教育目標を鮮明にしていましたが、それは生徒を一つの鋳型にはめ込むものではなく、人間教育を重んじるものであり、底流には官立とは違う私学独自の教育観があったとされています。実際、生徒らによって独自の校風が既に作られていたことが「協学会誌」の中に見られます。協学会誌とは、現在の生徒会誌に近いものですが、当時の北海生は今とは比較にならないくらい何事にも積極的で主体的に見えます。
2代校長となった戸津高知先生は33年間校長を務められましたが、それは浅羽校長の志を引き継いで、特に大正デモクラシーの頃からは生徒の主体性と個性を伸ばす柔軟な教育へと転換されました。現在の北海高校の教育の原点になるものがこの時代に築かれたと言っても過言ではないでしょう。生徒は上辺を飾らず自らの意志と自由な立場で、真摯に学校生活に取り組んでいた様子が伺えます。この頃からはスポーツはもちろん文化活動も盛んになり、現在の文芸部、新聞部、美術部、弁論部などはとりわけ活発でした。例えば弁論部は、北海生だけではなく、札幌農学校や小樽高等商業学校(現小樽商科大学)の学生らを招いて、多くの一般生徒、先生方を聴衆に演説大会を催していました。そもそも演説は北海生にとって日常的なものだったかも知れません。卒業式には研究発表の名で日本語だけではなく英語でも演説会が行われ、運動部の部長などは協学会誌に論説を載せたりもしていました。当時の北海生の活動から見えてくるのは、他校にはない在野の精神と自由と正義、あるいは自立と自治が顕在化されていたことです。はじめは、時代の影響を受けて示された「質実剛健」でしたが、公立学校が掲げた「質実剛健」とは明らかに違う、北海独自のものになっていたと考えられます。「質実」は、信頼される人間であるための基礎と考えられ、「剛健」であることは自分らしく生きるために不可欠なことであるとし、学校はもちろん生徒らにとっても、この言葉に誇りを持つようになっていたと考えられます。
一方、「百折不撓」の語源は、中国の後漢の時代の碑文にまで遡ります。北海のように旧制中学校からの歴史を持つ学校の校訓として採用されているものの多くに「不撓不屈」がありますが、なぜ北海では「百折不撓」となったか、確かな情報はありませんが、少なくとも「質実剛健」のように学校が示したものではなかったようです。
北海道は開拓地であったこともあり、古くから官尊民卑の風潮が強いところでした。今日にもその傾向があるといえるでしょう。当時、札幌における中学受験で、第一志望校になったのは札幌一中(現札幌南)や札幌二中(現札幌西)でした。北海中学に入学するものの大半は、その入試に失敗した者たちでした。この挫折が、かえって一中や二中にいった者たちには絶対に負けたくないという思いが北海生の気概になりました。協学会誌には、「七転八起は世の常とし、百回どころか千回挫折しようとも決して屈せず、失敗は自分を一層強くさせてくれるものであり、再び挑戦する勇気が与えられるものだ」と演説した生徒がいて、とりわけ運動部員などがこれに共感して、北海生の団結力の高さは相当なものであったことが想像できます。
つまり「百折不撓」は、はじめから建学の精神として打ち出されたものではなく、生徒自らが中学受験から続く悔しさと北海での日々の生活の中で感じたもの、生み出されたものの実感として「不撓不屈」ではなく、あえて「百折不撓」という言葉を重んじるようになり、それが代々受け継がれていくなかで建学の精神として定着されていったものと考えられます。
徐々に北海生は、現在に伝えられる「質実剛健・百折不撓」の精神を心から大切するようになり、内側に熱く秘めるものを持って人間力を磨き、必死に勉強したり、汗にまみれ泥にまみれてスポーツや文化活動に打ち込む者が後にも続き、それぞれがその経験を人生の確かな土台として活かすようになりました。
どちらかというとスポーツのイメージが強い学校ですが、実は多様な分野で活躍していることが今も昔も北海の大きな特徴です。本校一階には2つのブロンズ像があります。一人はオリンピック金メダリストの南部忠平先生です。もう一人は文化勲章の黒川利雄博士です。黒川先生は、癌研究の第一人者として東北大学の学長を務められた他、日本学士院長にもなっています。猛烈に勉強をした代表といってよいでしょう。この他、日本史の教科書に登場する社会主義経済学者の野呂栄太郎をはじめとする学者や政治家、企業家、生徒玄関横にある「わだつみ像」の制作者本郷新や羊ヶ丘展望台にある「丘の上のクラーク像」の制作者坂坦道などの芸術家、芥川賞作家や直木賞作家など、これほどまで多彩で著名な人材を輩出している学校は、少なくとも道内においてそうはありません。
かつて黒川先生が母校を訪れた際、学校に書が寄贈されましたが、その一つが、3号館1階エレベーターホールに飾られている「愚公移山」という書です。
この言葉の意味は、「一般的に不可能だと思うようなことでも、地道にコツコツと続けているうちに、いつかは必ず目標は達成できる」というものです。医学の発展という高い志に、北海で学んだことを糧にコツコツと癌研究を続け、早期発見のためのレントゲン車を日本中に普及させた黒川先生自身の体験を、私たちに伝えてくれているものだと思っています。どんなに著名になった先輩の誰もが、決して最初から高い才能や能力を持っていた訳ではありません。むしろ挫折や失敗を経験した者が、多くの仲間からの信頼を得られる人間力を養い、己の心身と考え方を鍛えて、志に生きた結果です。
今の北海生にとっても決して不可能なことではありません。むしろ先人を敬い、自信を持って志を立てるべきです。本校に学ぶ者として今一度北海の歴史を知り、建学の精神を自分の中に取り込んで、皆さんには将来、「世のため人のために尽くせる人」を目指してもらいたいと願っています。

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