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札幌市にある北海高等学校から
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開校記念日前日 校長講話

2019-05-15校長先生から

 北海高校は明日、創立134周年となる開校記念日を迎えます。表彰に引き続いて、今日は北海の歴史について少し話をいたします。

北海の歴史は、その源である北海英語学校の時代から始まり、北海中学、そして北海高校と変遷してきました。ちなみに今年3月に卒業した先輩は、高校の71期生になります。従って今の3年生諸君は高校の72期生、2年生は73期生、1年生は74期生ということになります。ぜひこの機会に知っておいてください。そして私も北海高校卒業で、高校35期です。

北海高校の起源となる北海英語学校は、1885年(明治18年)の3月に開校しています。1885年という年は、日本に内閣制度が創設された年ですが、初代内閣総理大臣はだれですか? 伊藤博文ですね。時の初代文部大臣は森有礼という人物です。明治の時代は維新の時代です。いろいろな意味で日本が欧米に追いつくためには、近代的な教育制度を整える必要がありました。1876年に高等教育機関として札幌農学校(現北海道大学)が開校していましたが、そこへ進学するための中等教育機関はなかったため、北海英語学校は、道内唯一の中等教育機関として開校したわけです。なぜ英語学校であったかというと、当時の高等教育機関にはアメリカ人教師が多かったため、相当な英語力が必要だったと考えれば納得できると思います。ちなみに、公立で初めて開校した中等教育機関は、札幌中学、のち札幌一中と呼ばれた現在の札幌南高校で、北海の10年も後のことになります。

北海草創期に欠かすことができない人物には、大津和多里、浅羽靖という人物がいます。浅羽靖は、北海英語学校に中学部をつくり、1901年(明治34年)の5月16日に認可を受けます。これが現在の開校記念日の由来であり、浅羽は北海学園の父とも称されています。毎年、浅羽先生の命日である10月22日には浅羽祭というものも執り行われています。話を戻して、この時代には、当時の世相もうけ「自由と正義」、「反骨の精神や在野の精神」、そして「質実剛健・百折不撓」など、いわゆる後に「建学の精神」と形作られるものが産み出されることになります。そして、これら先人たちの志を基礎に、今日により近い北海高校の気風を築き上げたといっても過言ではない人物が、戸津高知という先生です。

戸津先生は、もともと仙台の出身で、札幌農学校への進学を目標に北海英語学校に学びました。つまり戸津先生は君たちの大先輩です。そして、札幌農学校に進学した後、札幌中学(現札幌南高校)の英語教師になりますが、まもなくして母校の教頭となり、1905年には、校名も北海中学校という名前に変わりました。

戸津先生の時代には、いろいろな理由から公立に入学できない、例えば、体が不自由であったり、当時の社会に対して批判的で、はみ出し者として見られていたような生徒にも入学を許しました。当時はまだ、社会には自由さがなく、世の中全体が画一的であったため、枠にはまらない生徒は、公立では受け入れられなかったというのが一般的でした。それに対して、とにかく人格や個性を伸ばそうというのが、北海の教育の原点になった訳です。

戸津先生は、学校に自由な空気をもたらす中にも、生徒の学習に対しては非常に厳格で、同時に文化活動やスポーツの振興に力を尽くされたと言われています。また、地域社会の要望に応えられる人材を育成するという使命をより強くした時代でもあり、その日常からの鍛錬こそが北海が文武両道といわれるようになった所以だろうと思います。

「北海百年史」という文献を見ると、北海中学の生徒は、「勉強する者は猛烈に勉強し、スポーツに打ち込む者は徹底的にスポーツをやっていた」ことがよくわかります。その結果として、当時の一般的な教育の枠にはまらずにいた生徒の中からも後世に名を残すような卒業生が多くでていきました。

学術分野の代表といえば、日本初の癌の集団検診をはじめ、日本学士院院長、東北大学学長を務めて文化勲章を受章した黒川利雄博士がいます。また、スポーツ面での代表といえば、ロサンゼルスオリンピック陸上競技三段跳びの金メダリストである南部忠平がいます。職員玄関近くの会議室前には、2体のブロンズ像があるのを知っていると思いますが、正にいま紹介したお二人の像です。

冒頭、私は高校35期の卒業生といいましたが、私が高校1年生の時、北海高校は創立95周年を迎えました。私はその記念講演として、黒川先生、南部先輩のお話を聞いた経験があります。

南部先輩は、「スポーツ人生」、黒川先生は「癌について」というタイトルでの講演でした。そのほとんどの内容は私の記憶からは消えていましたが、当時の私たち在校生に向けられたあるメッセージは、大変共感をして、言葉だけは覚えています。

南部先輩の言葉は、北海生は「学校の優等生より、社会の優等生になれ」というものでした。当時高校生だった私は、素直にそうだな、そうありたいな と思ったことを記憶しています。先ほども話にだした「北海百年史」を読むと、この言葉は、そもそも南部先輩の時代の校長・戸津先生の口癖であったことが書かれていました。また、南部先輩は、自ら「紺碧の空に仰ぐ感激の日章旗」という著書を記しています。その中には、100分の1秒を縮めるために、馬の動きからスタート・ダッシュの研究をしたとか、猿の飛び上がる様から助走スピードのヒントを得たなど、たゆまない研究と練習としたというエピソードが書かれているのですが、「自分の才能や個性を見つけられたこと、そして自分に自信を持って研究や練習にあたる強い精神力を築くことができたそもそもは、北海中学時代にあったと述べています。「学校の優等生より、社会の優等生になれ」南部先輩はきっとこの言葉にいつも励まされながら、世界一という偉業を成し遂げることができたのだと思います。

また、黒川先生からの言葉は、「山上に山あり、山また山」というものです。これについても「北海百年史」によれば、黒川先生が、中学を卒業してから浅羽校長から受け取ったはがきの一節であったこの言葉を、黒川先生自身の処世訓としていたものであることがわかります。

黒川先生は、胃がんの集団検診車の開発で、実際に早期発見により成果をだすまでには20年以上を要し、同時に最先端のがん治療法の研究も続けていましたが、医学の道は、山を登り詰めたかと思えば、また目の前には高い山がそびえ、それに挑まなければ人の命は救うことができない。そのような立場にあった黒川先生が苦難に立ち向かうとき、先生自身がいつも思い起こす言葉であったことを想像することができます。

「学問にも、人生にも、山を乗り越えればまた山があるんだ、人は一生努力し学び続けることが大事なんだ」という意味を持つこの言葉、「山上に山あり、山また山」は、ぜひみなさんにも代々伝えていってほしい北海ならではの言葉です。

北海の卒業生には、このように社会の優等生が本当に数多くいると思います。それは、歴史に名を残しているか否かではなく、自分の持っている才能や個性がここで見出され、それを磨き、大小あっても社会の中で他に良い影響を与えている人という意味になるでしょう。それが社会の優等生です。北海の建学の精神は、どれだけ時間が経っても脈々と受け継がれています。私はそのことに誇りを感じています。皆さんも、そういう土壌に、いま根を張って、やがて花をつけ実をつけることのできる大きな可能性をもっていることを今一度知って欲しいと願っています。これからの高校生活の中、良き指導者、良き友を得て、良い伝統を継承していくとともに、皆さん自身の人間形成にプラスになる学校生活を送ってほしいと思います。以上で、開校記念に際してのお話を終えます。

2019年5月16日

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